論文

知事の不祥事はこうして防ぐ
権力に歯止めをかける首長の多選禁止条例を

県が主導した悪質な談合
なぜ条例でやるべきなのか
現行法制下でも可能だ
地方分権は勝ち取るものである

県が主導した悪質な談合

二〇〇六年は地方政治にとって激震の年となった。地方分権改革が進行するなか、知事や市長の相次ぐ汚職による逮捕、県庁ぐるみの裏金問題。そして、公務員による飲酒ひき逃げ死亡事故など不祥事の続発である。
とくに、相次ぐ知事の不祥事は地方政治への信頼を完全に失墜させるたいへん深刻な事態を巻き起こした。福島県、和歌山県、宮崎県の官製談合は、いずれも選挙応援のしがらみなどを理由に特定の者に公共工事の入札の便宜を図るという構図であり、知事が主導し幹部職員を巻き込むという悪質なものだ。岐阜県の裏金問題も、知事をはじめ県の幹部や職員組合も含めた組織的なものであった。
いま、地方自治体はたいへん重要な時期を迎えている。安倍内閣も、地方分権攻革を政策の柱の一つに据えている。昨年十二月には「地方分権改革推進法」が成立し、第二期地方分権改革にたしかな一歩を踏み出すこととなった。地方分権改革を進める重要なこの時期に 国民の信頼を失墜させた責任は甚だ重いといわざるをえない。ようやくここまでたどり着いた改革に水を差す危機的な事態である。このうち、福島県や岐阜県のケースは、両知事とも長く知事の職にあったことから、多選の弊害という指摘が報道で取り上げられた。そしてこうした事件を機に、自民党は四選以上をめざして立候補する知事、政令市の市長を推薦しない方針を決定した。これによりすでに同様の方針を決定している民主党、公明党といった主要政党間で多選首長は推薦しないという方針が出揃ったことになる。
また、昨年十二月に自民党の党改革実行本部は、現在開会中の第二ハ六回通常国会で多選制限の法改正を議員立法により行なう方向で検討に着手した、との報道もなされたのである。
このような動きに対して、首長の多選制限を消極的に捉える立場からは、「不祥事は多選が原因ではなく個人の資質の問題である。多選であろうと不祥事を起こさない知事もいれば、一期でも起こす知事はいる。四年ごとの選挙における有権者の判断を尊重すべき」といった反論が出される。
たしかに、今回の知事の不祥事についても、和歌山県知事は二期目であり、宮崎県知事にあっては一期目であったから、多選がすべての原因であるとはいえない。
しかし、多選によるよどみが招いた不祥事はこれまでも数多く指摘されている。今回の福島県の事件、岐阜県での裏金問題に際しても、長く知事の職にあったことで自らを厳しく律するという感覚が麻痺してしまい、周囲も多選知事に対してものをいえなくなったとの弊害が指摘された。
こうした弊害の起こりうる「おそれ」を政治システムとして、民主政治のルールとして予防するのか、それとも個人の資質の問題として何の手も打たず放置しておくのかという選択の問題なのである。二元代表制を採用しているわが国の地方政治にあって、首長はヒト、カネ、モノを一手に握る独任性の機関であり、最高権力者である。その権力の大きさは、図らずも今回の不祥事でも明らかとなった。首長が強力な政治権力のもとに長くトツプの地位にとどまることで、「政治の独善化」「人事の偏向」「行政のマンネリ化」「議会とのなれあと「利益団体との癒着」などといったさまざまな弊害が生じやすいと指摘されている。
一九九九年に旧自治省が設置した「首長の多選見直し問題に関する調査研究会」の報告書でも、六点の弊害を挙げている(別表「多選の弊害」)。

●多選による弊害
・独善的傾向が生まれ、助言を聞かない等の政治の独走化を招くおそれ。
・人事の偏向化を招き、職員任用における成績主義に歪みを来すおそれ。
・マンネリズム化等による職員の士気の沈滞のおそれ。
・議会とのあいだに緊張感を欠いた関係を生じ、議会とのチェック・アンド・バランスが保てなくなるおそれ。
・長期にわたって政策が隔たり、財源の効率的使用が阻害されるおそれ。
・日常の行政執行が事実上の選挙運動的効果をもち、それが積み重ねられる結果、公正な選挙が期待できなくなり、新人の立候補が事実上困難になるおそれ。
「首長の多選の見直し問題に関する調査研究会報告書」
(平成11年7月27日首長の多選の見直し問題に関する調査研究会)から抜粋

権力の分散には三つのカテゴリーがあろう。まず、立法、司法、行政の三権を分立する「機能的分権」。次に国から地方へ権限・財源を移譲する「地方分権」。そして、多選制限という「時間的な分権」である。この三つの分権によって、権力を分散させチェック・アンド・バランスを図ることが民主主義の要諦である。
また、有能なリーダーといっても永遠ではないし、必ず交代する時期が来る。したがって、有能なリーダーを継続して育てていくことが重要である。多選を制限することで、定期的に首長が交代することとなる。その結果、若いリーダーが育ち、地方政治の循環が生まれるという効用も期待できる。
諸外国では「権力の長期化は必ず腐敗する」というテーゼのもとに多選制限をルール化している。わが国でも多選制限の議論はこれまでも繰り返され、法案だけでも一九五四年、六七年、そして九五年の三回議員提案されたが、残念ながらいずれも審議未了で廃案となっている。議論のたびに憲法との関係や多選の弊害を立証できるかといった問題が指摘され、制限するまでには至っていない状況にある。
だが、今回はこれまでとは違う。多選に対する世論が厳しくなっており、実現する可能性がこれまでになく高いのではないだろうか。
多選制限の実現が現実的になったいま、その必要性やあるべき制限の方法などについて、あらためて国や自治体関係者のみならず多くの国民に対し問題提起をしたい。

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なぜ条例でやるべきなのか

私は、二十年近く前から「首長の多選制限はぜひとも必要だ。そして制限の方法こそが重要だ」と主張してきたや多選の制限は、法律で一律に行なうのではなく、地方自治体が自らの統治のルールとして条例によって行なうべきであるとの主張である。
なぜ条例による制限でなければならないのか。
地方分権改革が重要な時期に来ていることはすでに述べた。地方分権とは、住民に身近な地方自治体が住民参加のもとで、地域の実情を踏まえ、地域のことは地域で決定し、その責任ももつという体制だ。
したがって、首長の多選をルールとして制限すべきか否かは、主さに地方自治の問題であって、住民参加のもとで各地方自治体が自ら判断すべきである。そして制限すべきと判断した場合には、自ら条例によって定め律することが、地方自治の本旨に合致しているのである。
地方政治のルールの問題を国が法律で画一的に規定するのは中央集権の発想であり、地方分権を進めようという時代には許されない。
地方分権一括法の施行によって、国と地方は対等の関係となった。
たとえば、知事を国の出先機関とみなして、国の指揮監督に従い、国が決めた基準で仕事をしなければならない「機関委任事務制度」が廃止された。そして、国の「関与」もルール化され、法令に根拠がない「通達」による関与は禁止された。こうして国と地方の役割が明確にされ、それぞれの役割を主体的に担うこととなったのである。
こうしたことから、私は、昨年十一月に開催された八都県市首脳会議の場でこの問題を提起し、全員の合意を得て、八都県市首脳会議の総意として、「首長の多選を法律で一律に制限するのではなく、条例で制限できることを明確にするよう法令改正をすること」を国に申し入れた。さらに全国知事会でもとの問題芹提起しているが、協議は続いているものの慎重な意見も多く、現段階で意見の一致を見ていない。首長の多選問題については、国でもこれまでさまざまな動きがあった。一九九三年の臨時行政改革推進審議会の最終答申では、「自治体の首長の多選は、住民の意思により排除することが望ましい」とされ、九八年の地方分権推進計画でも首長の多選について、「首長の選出に制約を加えることの立法上の問題点や制限方式のあり方等について、幅広く研究を進めていく」とされた。そして、昨年二月には第二八次地方制度調査会の答申もあった。
さらに昨年十一月に総務大臣は、首長の多選問題について、憲法上の論点、多選の制限に関する考え方、多選を制限することとした場合におけるその内容などについて幅広く調査研究するため、憲法学者などで構成する調査研究会を設置し、本年五月を目途に検討結果をまとめるべく検討に着手した。
地方分権の推進を国・地方ともめざしている今日、首長の権限はますます増大していく。こうした流れを受けて、多選の制限をわが国の民主政治のルールとして取り入れることによって権限の集中を防ぐ必要性は、ますます高まってきている。
しかし、国の動きを見ると、首長の多選を法律で一律に制限するという意向が強いことに強い懸念を抱えざるをえない。実際に、「知事の不祥事はけしからん。だから、法律で一律に制限してしまえ」というような発言をしている国会議員もいる。このような発想は、まさしく中央集権の発想であり、地方自治体はもちろん、主権者たる住民の意思もまったく斜酌していない。
各地方自治体の状況や判断を無視し、法律によって一律に多選を制限するととは、それこそ立候補の自由を無条件で制限し、地方自治の本旨をも侵害する暴挙といわざるをえない。

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現行法制下でも可能だ

私は、地方からの政治改革に挑戦するため、昨年十二月、県議会に多選禁止条例案を提案した。議会からは、「多選制限は県民が望んでいる」「法解釈に疑義があるなかでも自治体独自に条例化に挑戦していくことは分権時代にふさわしい」といった賛成意見もあったが、「多選による弊害は明確に立証されておらず、知事の資質の問題だ」あるいは「今回の条例案は法的に慎重な検討を行なっていない拙速なものだ」といった反対意見が出され、残念ながら、反対多数で否決された。
現行法制下では、条例による多選制限の違法性が指摘されていることも事実である。しかし、私はこの論には異を唱える。現行法制下でも条例による制限は可能であると確信している。次にその理由を述べよう。
法的論点は二点ある。一点目は憲法との関係、、二点目が公職選挙法などの法律との関係である。
まず憲法との関係である。
第一に、多選の制限が、憲法が保障する人権、具体的には立候補の自由、法の下の平等、職業選択の自由に反するかどうかという争点がある。
公共の福祉の観点から合理的な根拠があれば、憲法で保障する人権について必要最小限の制限をすることは違憲ではないとされている。
公職選挙法で知事と市町村長の被選挙権の年齢要件に差を設けているように(知事三十歳以上、市町村長二十五歳以上)、制限の妥当性が正当化されれば違憲とはならないのである。
第二に、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定した憲法第九二条の規定により、多選制限は条例で定めることはできないという点についてである。
これに関しては、二○○一年の地方分権推進委員会の最終報告のなかで次のように記述されている。「地方自治制度の制度設計はあげて国会の立法に委ねられているかのような誤解を招きかねない。もとより、これは正しい憲法解釈ではあり得ないのであって、この条項の元来の主旨を生かすべく、『地方自治の本旨に基いて』を重視する憲法解釈がさまざまに積み重ねられてきた」
この記述から判断すれば、多選制限は地方自治の本旨に照らし、地方自治体の自主組織権に関するものとして条例で定めることがふさわしいことは明らかである。
次に法律との関係である。
憲法および地方自治法では、法律の範囲内、あるいは法律に違反しないかぎり条例を制定できるとしている。そして、昭和五十年の徳島市公安条例事件に対する最高裁判決では、国の法令が空白状態にあるとき、同一事項について目的。趣旨を異にするとき、そして目的趣旨が同じでも、全国的に最低水準を定めた法律に、より厳しい基準を設定するときに条例を制定できるとした。
この判例に照らすと条例による多選制限は可能と解釈できる。
つまり、公職選挙法では、地方公共団体が自ら首長の在職制限をすること自体想定しておらず、空白状態である。そして、公職選挙法が公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由な意思表明によって公明かつ適正に行なわれることを目的としているのに対し、多選禁止条例は、首長が長期に在任することにより生ずるおそれのある弊害を防止することが目的であり、明らかに目的・趣旨が異なるのである。
以上のことから、現行法制下でも条例による多選制限は可能と考えるのが妥当であろう。しかし、多選制限の違法性が指摘されている以上、地方自治法に「在任が可能な期数を条例で定めることができる」と規定し、公職選挙法には、「との規定により在任が可能な期数を超えることとなる者は候補者になることができなど と規定することで、条例による多選制限が可能であることを明確にすることが望ましい。

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地方分権は勝ち取るものである

一月二十八日に行なわれた神奈川県厚木市長選挙で、四期目をめざす現職に、多選阻止(多選禁止条例の制定)をワンイシューで訴えた新人が圧勝した。有権者は多選の弊害を認識し、多選禁止のルール化を支持したのである。
いま、二元代表制である地方自治体の首長と議会双方が、どこまで「本気」で政治改革を実現しようとしているか、その見識と力量が問われている。国主導での画一的な制限を認めれば地方分権改革などおぼつかない。国の方針が出る前に、当事者である地方自治体が多選の制限は自らの責任で行なうと提起しなければならない。地方分権は与えられるものではなく、勝ち取るものである。
日本の発展と国民生活の向上のためには、地方分権改革を逆行させてはならない。法律による一律の制限は、絶対に認めてはならないのである。制限は条例によるべきであることを広く国民に訴え、早急に民意を高めていくことが喫緊の課題である。
いまこそ、すべての首長が自らの問題として真剣に考え、議会と一体となって不退転の決意で地方政治の改革に臨まなければならない。その意気込みを示すときなのである。

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